06.特別プログラム


「無教会と平和主義―なぜ平和憲法を変えてはいけないのか―」

萩野谷 興

プロフィール
職業:弁護士
今井館聖書集会、西村秀夫先生の家庭集会、札幌聖書研究会などで順次ご指導を受け、1984年から水戸無教会聖書集会に所属。憲法を生かす会・茨城の共同代表。2012年から東海第二原発の再稼働差止訴訟に弁護団の一員として関与。原子力規制委員会は本年11月には再稼働にゴーサインを出す見通し。訴訟と住民運動との提携によりこの状況をどう打開していくかが目下の関心事の一つである。

第1、憲法9条が今まさに変えられようとしていること

  1、安倍氏3選で改憲加速化
   2018年9月20日、安倍晋三首相が、自民党総裁選で3選された。
   このことにより、平和憲法は施行後、最大・最悪の危機に直面している。

 首相は、直後の記者会見で、憲法9条への自衛隊明記を含む改憲案を秋の臨時国会に提出するとの意欲を示した。それから約1か月の10月24日の臨時国会での所信表明演説で、安倍首相は自民党改憲条文案を憲法審査会に示し、議論を進める方針を明言した。安倍首相の演説の中に、「国の理想を語るものは憲法です。」という言葉がある。この一言に、「冗談言うな」との思いを強くする。国の理想と言えるのは現在の平和憲法そのものであり、9条改正案は国の理想を放棄するに等しいのである。
 ここで、おさらいとして、自民党改憲案のあらましを見ておきたい。改憲項目は4つで、さる3月25日の自民党大会で確認されたものである。
資料A-1(安倍政権の全体像―改憲4項目。添付省略。注1)にその4項目と条文のイメージが書かれている。上から見ていくと、第1は、9条、第2は緊急事態条項、第3は参院選の「合区」解消、第4は教育である。自民党は、2012年改憲草案の中の一部に、すでにこの4項目の改正案を折り込んでいる。

2012年改憲草案と最近の議論の状況とを比較・整理したものがA-2(自民党の改憲4項目と2012年改憲草案。添付省略。注2)である。
今回の私のテーマは平和憲法であるから、9条以外の改憲項目についてはこれ以上深入りしない。ただここで強調したいのは、安倍政権の改憲の真の狙いは9条の改正であり、他の3つは真の狙いをぼやかすためのカムフラージュ的色彩が強いということである。

  2、安倍首相は、本年3月25日の自民党大会で、9条1、2項はそのまま残し、9条の2
   という条文を新たに設けて、自衛隊を明記するという案をとることを主張した。

この9条の2のイメージはA-1の「9条」の箇所に記載のとおりである。
現行憲法9条1、2項はどうなっているかというと、資料B(現行憲法、自民党改憲草案対照表。添付省略。注3)の3ページを参照していただきたい。上段が現憲法、下段が2012年自民党案である。
 上段の現憲法では、1項は、戦争と武力などの放棄、2項は戦力を持たない、戦争をする権利即ち交戦権は認めない、となっている。下段は、現憲法の2項を削除して、新たに、9条の2で国防軍をうたっている。

 今回の自民党改憲案は、9条1、2項をそのまま残すという点で、あたかも平和憲法の根幹は維持しているようにも見える。しかし、実際はそうでない。ここにカムフラージュがある。このことは、改正案を批判する学者らが異口同音に指摘しているところである。この指摘が正しいことは、安倍氏と一心同体で改正を進める高村正彦氏(発言当時は自民党副総裁)の発言でも裏づけられる。彼は言う。

 「自衛隊を明記するという安倍総理の提案の心は、自衛隊が合憲か違憲かという神学論争に終止符を打つことだ。しかし、集団的自衛権がどこまでできるかという神学論争は引続き残していいということである。党内ではこれでは不十分だという反対意見がある。私も理論的には2項削除論がいいと思っている。しかし、われわれは学者ではない。実現可能な望ましい案を出し、それを実現することが政治家の使命である。」(『安倍総理と日本を変える』飛鳥新社2018.8.21発刊のp.228以下)。

 この発言でも明らかなように、安倍首相の本音は9条2項を削除した上で国防軍の設置を明記すること(それは自民党改憲草案―資料Bのとおり)である。一般国民の受けをよくするために今回の形で改正をひとまず通し、それがうまく行けばあとは勝手にやらせてもらうという魂胆が見え見えである。 

  3、安倍首相の9条改憲の狙いは

 集団的自衛権の全面的な行使や自衛隊のさらなる海外派兵にあると考えられる。そのことはこれまでの安倍氏の折々の発言に加え、①  2014年7月、集団的自衛権が9条の下で認められるとの閣議決定、② 2015年9月、平和安全法制の強行採決等からも明らかである。

 言葉は「安全法制」ではあっても、実体は「戦争法制」である。これを積み重ねてきた安倍政権と国会の最近の情勢は次のとおりである。より詳細な動きについては、資料C(年表/改憲をめぐる動き。添付省略。注4)を参照されたい。

  (1)秘密保護法の制定

2013年10月 特定秘密保護法を国会に提案し、11月に「国家安全保障会議」
設置法を成立させた。この「会議」は、戦争を遂行するための国家機関、いわば
戦争の司令塔である。

2013年12月6日 特定秘密法の強行採決。
2014年12月 同法施行。
以上により戦争を進めるための情報管理体制が構築されたと言える。

  (2)閣議決定で改憲

2014年7月1日、集団的自衛権の行使を認めることを閣議決定。
集団的自衛権の行使を認めないことは歴代政府の憲法解釈・内閣法制局の確定した見解であった。これを一内閣の独断で変更してしまったのである。

  (3)平和安全法制(実は戦争法制)の強行成立
    2015年9月19日未明、つぎの2つの法律が強行成立。

  ① 「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律」(通称 平和安全法制整備法)(自衛隊法、重要影響事案法、武力攻撃事態等法などを含む10の法律の改正)

  ② 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(通称:国際平和支援法)

 以上の①、②を併せて平和安全法制(=実質は戦争法)と略称するが、これらの法律は、
手続きに多大な疑問があるが、政府は適法に成立したとして、2016年(平成28年)3月29日
に施行された。しかし、戦争法は、集団的自衛権を認めるもので、戦後日本の安全保障政策を根本的に転換しようとするものであり、明らかに違憲である。

 今回の安倍政権の改憲の狙いは、自衛隊そのものの違憲性の議論に決着をつけると共に、これらの法律の違憲性を解消することにある。この憲法改正が実現すれば、9条は死文化すると言ってよい。

第2、自衛隊と憲法9条との関係

  1、 自衛隊は、今や世界有数の軍事組織である。主要12か国における日本の地位はつぎのとおり(2018.10時点ウィキペディア)。
軍事費(2016年)では、1位 アメリカ6,045億ドル、2位 中国1,450億ドルなどで、日本は473億ドル(約4兆7,000億円)で6位に位置する。フランス(7位)、ロシア(8位)、ドイツ(9位)よりも多額である。
兵員数(2017年)で見ると、1位 中国218.3万人、2位 インド139.5万人、3位 アメリカ134.7万人、4位 ロシア83.1万人と続き、日本は24.7万人で8位。フランス(20.3万人)、ドイツ(17.7万人)より多い。

  2、 憲法学者の大半は、自衛隊が憲法9条に違反しているとの見解である。これに対して従来の政府は、違憲ではないという立場をとってきた。その理由づけはこうである。
自衛権は国家固有の権利として、憲法9条の下でも否定されていない。そして、自衛権を行使するための実力を持つことは憲法上許される。つまり、自衛のための必要最小限度の実力は憲法9条2項の「戦力」には該当しない、というのが政府の見解であった。ここに言う「自衛のための必要最小限度の実力」とは何かは必ずしも明確ではないが、政府は、他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できないと説明してきた(芦部信喜『憲法(新版 補正版)』岩波書店P62)。

 この政府見解は現在の自衛隊の規模、戦闘能力などを前提にすれば受け入れがたいが、ともかく自衛隊の存在は既成事実化し、国民の大半はそれを問題視しなくなっていると言ってよい。
 なお、この政府見解は、安倍政権が2014年の閣議決定で9条の解釈を変更する前までのものである。その後は限定的とは言え、集団的自衛権を認めることになったので、従来の説明は通用しなくなった。

  3、自衛隊は年々増強され、今や世界有数の軍事組織となっている。
自衛隊は、1954年の自衛隊法制定以来60年余存在し続けている。憲法学者の大多数は、憲法違反であるとはっきり主張する。裁判例でも、札幌地裁第1審の長沼判決(=福島判決)は違憲説をとった。これに対し、政府は、自衛隊は、個別的自衛権の行使(=専守防衛)のため、必要最小限の実力を保有するにすぎないから合憲であるとの見解に立ってきた(ただし、この政府見解は、前述のとおり2014年の安倍政権の9条解釈の閣議決定により変更された)。

自衛隊が存在するという現実と絶対的平和主義の理想をうたう9条とのギャップを法理論上どう説明するかはきわめて難しい問いである。
最近の中国や北朝鮮の脅威に対して日本および国民を守るには9条が邪魔であるとの素朴な思いを抱く人々がかなりいることも事実である。
そのような人々に対し、憲法改正はすべきでないことをわかり易く説明する必要があるが、なかなかむずかしいと私は実感している。

このような問題意識を持つ私にとり、憲法学者小林直樹の説明が参考になった。その要旨を紹介する(小林直樹『憲法第九条』岩波書店)。

「自衛隊は、憲法上は許されない存在。しかし、正規の手続を踏んで成立した自衛隊法に基づくから合法である。ゆえに自衛隊の存在の現実は、違憲かつ合法という矛盾状況として受け止めるのが正確な法的認識である。矛盾した緊張関係を正確に捉えることにより、その解消という問題に国民を向かわせることになるだろう。」

自衛隊は憲法上は許されていないが、国会が正規の手続を踏んで成立させた自衛隊法に基づくものであるから、合法であるという。これは明らかに矛盾だが、この矛盾を率直に認めようとの提言である。
 矛盾の解決の一つの方法は、9条を削除し、または改正して、自衛のための軍隊を持てるようにすることであるが、それはとりえない。

ではどうするかというと、一方で自衛隊の合法性を認めつつ、法律の枠外に出る活動をしないようにコントロールしていく、他方、憲法の観点から違憲性を常時自覚させ、平和憲法の理想への引き戻しの運動と政策を促進させる。

そして、小林は、「平和のための積極的構想」として詳細かつ多岐にわたる方策を提案している。示唆に富んでいるのでその骨子を次に引用する。

①仮想敵国を作らない。②アジア地域に安定空間を拡げ、ひいては世界の非核化と軍縮への足がかりをつくる。③非武装の徹底。それにより節約した費用を平和教育や国際支援などに使用。④軍事費よりも国民の福祉や教育への投資など。

これら諸施策により外国からの侵略の可能性を著しく減少できるであろう。

第3、なぜ平和憲法を変えてはならないのか。

  現在、平和憲法を良いと思っている人は当然にこれを変えてはいけない理由も知っている。しかし、平和憲法の存続が大きな危機に直面している今こそそれを変更してはいけない理由を再確認しておく必要がある。思いついたいくつかをつぎに掲げる。

  1、まず、一般的に言われている理由はつぎのとおりである。

  (1) 戦争の悲惨さを経験した国民の多数は喜んでこれを受容したこと。
15年戦争による犠牲者は、日本人が約310万人、中国を初めとする外国人が2000万人をはるかに越えると言われている。この被害および加害の事実が象徴する戦争の悲惨さを契機として現憲法が誕生した。

そして、指導者たちはもちろん一般国民の多数もこの憲法を喜んで受け入れた。このことは、1946年4月17日に公表された「憲法改正草案」について同年5月に毎日新聞が行ったアンケートの結果で、70%の人が戦争放棄に賛成したということにも表れている。

  (2) 歴代保守政権による、憲法9条の改変の企てに対し、平和を望む広範な人々が抵抗し、これを阻止してきたこと。平和憲法の誕生が多くの国民によって祝福され、迎えられていたのに、1950年の朝鮮戦争の開戦を機にアメリカおよび日本の為政者からは邪魔者扱いされるようになった。

 1950年の警察予備隊設置後、1952年に保安隊、1954年の自衛隊に改編され、順次軍備が増強されていった。これらの事態に対し、憲法を支持する実に多数の人々が力を合わせこれを守るべく言論と裁判をも含む行動に力を注いできた。
 裁判闘争の結果として、下級審ではあるが、たとえばつぎのような歴史に残る違憲判決を勝ち取っている。

1959年3月30日 東京地裁判決(砂川事件。裁判長は伊達秋雄)
「アメリカ駐留軍は憲法9条2項の戦力に該当するから日米安保条約は違憲」
1973年9月7日 札幌地裁判決(長沼事件 裁判長 福島重雄)
「自衛隊は憲法9条に言う『戦力』に該当し、違憲」
 裁判所は、極力違憲判断を避けようとする傾向がある。そのような中、違憲判決が出されたことは貴重である。長沼判決は、深瀬忠一北大教授の憲法理論などを武器とし、数多くの関係者(市民、憲法学者、弁護士など)の協力によって勝ち取られたものである。

 この事件一つをとっても憲法を守る闘いの大変さと重要性の一端を知ることができる。このように平和憲法は、私たちの先輩たちや同時代に生きる人々の汗と涙によって今日まで辛くも守られてきた。この事実を重く受けとめるとともに、今ここに生きる私たち一人ひとりがこれを守り育てていく責任があることをあらためて確認したい。

  (3) 平和憲法があるため、日本はこれまで外国で戦争や戦闘行為をすることがなかっ
た。また、志ある人々が平和の精神を持ち、外国で人道的な活動を地道に行ってきた。これらにより、日本および日本人に対する諸外国の信用・信頼を得てきたこと。上記のことによって、戦後の復興や経済の発展、暮らしの豊かさがもたらされた。
 終戦後70年が経過したが、その間、自衛隊が戦争で人を殺したり、また戦争で殺された人がいなかったというのは特筆すべきことである。